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宇宙がたくさんある可能性

ビッグバンから宇宙が始まったということらしいですが、

仮にそうだったとして、

ビッグバンの前にはいったい何があったのか?

その問いに対して、「その問い自体が無意味」との回答があるらしい。

 

「ビッグバンより前には時空の区別もなかった」、

時間の観念がないので『ビッグバンより前』もない」

というのがその理由らしい? けど。

 

何を言ってるのか全く分かりません

 

そもそもビッグバン云々というのは、

「私たちのいる宇宙」についての話ではないのか。

「私たちのいる宇宙」以外に宇宙がたくさんあっても、

別に何もおかしくないのではないか。

 

「私たちのいる宇宙」が膨張し続けているのなら、

どうせその外側を観測することはできないのだし、

外側に別の宇宙がある可能性を否定することはできないと思うのです。

 

宇宙はたくさんあって、各々が好き勝手に膨張していたりして、

もしかしたら光速で膨張している宇宙同士が衝突してたりするかも。

結構派手なことが起こっているかもしれない。

その「派手なこと」が何なのか、私には想像できないのが残念。

 

それにしても、「時空の区別もなかった」なんていうのは、

宇宙物理学というよりは、哲学ですよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥の名前をネットで検索する難しさ

ある朝、仕事に向かう私の前を、1羽の鳥が横切りました。

その鳥の歩くスピードが尋常ではない速さ。

でも、その鳥の名前が分かりません。

ネットなら名前が分かるだろうかと、試しに「鳥 スタスタ」で検索。

すると、その鳥はセキレイであることが分かりました。

 

またある日。

朝から凄まじい(さらに言えば汚い)声で鳴く鳥を発見。

やはり、その鳥の名前が分からないので、「鳥 ギョエー」で検索。

その鳥はムクドリだと分かりました。

 

ところが、別のある日。

姿は見えないものの、鳥の奇妙な鳴き声を聞いた私は、

その鳥の名前を調べようと、「鳥 ヘヒョヘ」で検索。

なんと、

「一致するウェブページは見つかりませんでした」とのつれない答え。

 

その鳥の名前は、後日たまたま見ていたテレビで知ることができました。

コジュケイでした。

コジュケイの鳴き声は「ちょっと来い」と聞こえるとのこと。

全然違う。検索しても分からないはずだ。

 

でも、私には「ヘヒョヘ」と聞こえるのだけれど。

一度「ヘヒョヘ」だと認識してしまうと、そのあと何度聞いても

「ヘヒョヘ」にしか聞こえない。

 

鳥の名前をネットで調べるとき、

写真や鳴き声のデータを入力して検索するわけではないので、

コジュケイの場合のように残念な結果に終わるのは、むしろ当然かも。

ならば、セキレイムクドリのケースは、ある意味奇跡的。

私と似た感覚の人が少しは存在することが証明されたようなものです。

 

 

「はかる」を「悪くない順」に並べた結果

「はかる」という意味を持つ(であろう)漢字がいくつかあります。

特に理由もないのですが、

それらを「悪くない順」に並べようと思い立ったのでした。

ただし、「測量する」という意味の「はかる」ではなく、

「プランを立てる、~しようと思う」という意味の「はかる」です。

 

まず、「」。

別に悪くなさそう。「計らう」とか、むしろ良い感じにも思えます。

次に、「」。

「計」と比べると、プランに具体性がないだけのような気もしますが、

「心中を図る」のような使われ方をするので、その分なんか印象が悪い。

続いて、「」。

「計画」は別に悪くないですが、「画策」となると悪が少し兆しているような。

次は、「」。

頭を使って案を練るというイメージもありますが、どこか腹黒い印象が否めません。

そして、「」。

「略」よりさらに腹黒い感じがします。「策士」とか。

最後は、「」。

字を見ただけでクーデターのイメージ。良い意味はなさそう。

 

以上、計→図→画→略→策→謀という順番になりました。

こうして並べると、だんだん悪い印象が濃くなっている。

などと自画自賛

(※ 個人の感想であり、この順番が正しいと言ってるわけではありません。)

 

 

整数のきちんとした定義

数学がらみの話ばっかり。

学校で「実数は有理数無理数に分けられる」ことを習いました。

そのとき、

「m、nを整数(ただしnは0でない)とするとき、

『n分のm』の形で表すことができる数を有理数という」

というふうに習った(気がする)。

一方、そう表せないのが無理数であると。

 

上のように考えるのならば、

そもそも「整数とは何か」がはっきりしなければ、

有理数無理数もはっきりしないということになるのでは?

と今頃になって思いつく。

 

それでは、学校で整数についてどう習うかというと、

「『1、2、3、4、5、…』という数、

それらにマイナスをつけた数、あと0。

これらをまとめて整数という」。こんな感じ。

なんだか定義の仕方がひどくいい加減な気がします。

「1、2、3、4、5、…」ってあんまりじゃないか。

 

もう少し気の利いた定義では、

「整数とは、0とそれに1ずつ加えていって得られる数、

及び1ずつ引いていって得られる数の総称である」となっていた。

さっきよりずいぶん高尚な気がします。

 

が、しかし。

なぜ0が無条件で整数なのか。

また、「1ずつ加える」なんてあっさり書いていいのか。

この辺のことはさっぱり分からないのです。

 

整数にはきちんとした定義がきっとあるのだろうと思って、

いろいろ見てみましたが、結局よく分からりませんでした。

「整数の定義はややこしいので割愛する」

という書きぶりの本もあるくらいなので、よほど厄介なのでしょう。

厳密な定義を知りたい半面、

きっと理解できないのだろうと既に諦めている私

 

 

 

 

 

 

 

 

日常生活の役に立たない数学の必要性

 

きのうの続きみたいになりますが。

私のように数学が苦手な人(特に高校生の頃)は往々にして、

「ベクトル(あるいは三角関数微分積分…)なんて役に立つのか?」

などど考えてしまいます。

その種の問いに対して、

「ベクトル(あるいは三角関数微分積分…)は〇〇分野には欠かせない」

といった回答がなされます。

 

でも、上の問答は噛み合っていません。

なぜなら、上の問いの趣旨は、

「数学なんて日常生活を送る上で役に立つのか」というものであり、

「数学はどういう分野で役に立つか」を聞いているのではないからです。

 

上の問いに対するまっとうな答えは、

数学自体は日常生活の役に立たない」ではないかと思います。

算数ができないと生活に困りますが、数学はできなくても生活に差し支えない。

現に、社会人になってから生活の上で使ったことがない。

 

では、なぜ数学を学ぶ(学ばねばならない)のか。

それは、論理的に考える力を養うためなのでしょう。

論理的に考える力は、社会生活において必要な力。

だから、順序立てて考えを積み上げていく訓練を、数学を通じてやっている。

今なら、こういう風に考えられます。

 

もし私が数学の教師だったら、

論理的に考える力が身についたかどうかを試すために、

テストには計算問題など出さず、証明問題ばかり出すかもしれません。

きっと、生徒から忌み嫌われることでしょう。

 

 

 

今更ながら気づいた数学の面白さ

学生の頃、とにかく数学が苦手でした。

完全に文系人間だった私は、理科もさることながら、

テストのたびに数学で華々しく火を噴いていました。

しかも、学年が上がるごとに、やってることの意味が分からなくなる。

「算数は生活に必要だが、数学は不要である」と考えていた私は、

「なぜ要らないもののために苦しまないといけないのか」と

恨みつらみやら怒りやらを抱えていました。

 

ところが、今の私は、

数学ってすごいじゃないか」と思っています。

なぜなら、数学は「全てが人間の作り出したもの」であり、

しかも「筋が通っている」と、今なら思えるからです。

もっとも、全てにおいて完璧に筋が通っているわけでもないのでしょうが、

数字にしても、図形にしても、

自然にあったものではなく、人間が生み出したものであって、

しかもそれが全世界で共有されているなんて、すごいことだと思います。

一つ一つ確実に積み重ねていく作業が素晴らしい。

ある問題に対していろんな解き方があり、しかもどの解き方でも同じ答えになる。

 

今、数学関係の本を見ていると、すごく面白いのです。

今ならベクトルも、微分積分も、やれば分かるかもって思う。

本当に分かるかどうかはともかくとして。

 

今数学を面白く感じるのは、

数学に対して気持ちに余裕があるからだと思います。

今はテストも受けなくていい。

分からないところで立ち止まってもいい。

この余裕が学生の頃にあれば、もう少しどうにかなったでしょうか。

 

 

 

 

楽しいはずの予定が近づいてくる憂鬱

いつの頃からでしょうか。

本来楽しいはずの予定が近づくにつれ、憂鬱になる私。

たとえば、誘われて飲み会の予定が入る。

その時は喜んでいるのに、だんだん楽しそうではない気がしてきて、

なぜOKしてしまったのだろう」などと後悔。

予定前日などは、

「明日具合が悪くなったら行かなくていいのだろうか」とか、

「『ごめん、飲み会が中止になった』と連絡が来ないだろうか」などど思う。

でもまあ、いい歳の大人が一旦約束した以上、当日は行きます。

 

で、いざ飲み会が始まると、

「なんだ、気に病むようなことはなかったじゃないか」となって、

楽しい時間を過ごしていました、以前は

近頃は、当日もあまり楽しくないのです。

「いくら誘われたからといっても、やはり来るべきじゃなかった」とか、

早く終わらないかな」とか、

マイナスな考えが頭をよぎります。

 

予定が近づくと憂鬱になる人は、世の中にはそれなりにいるようです。

何かで読んだのですが、

「予定のことをあれこれ考えて疲れてしまい、そのせいで憂鬱になる」

みたいなことが書いてありました。

私も当てはまっていますが、重症のような気もする。

 

ここまで来ると、私の場合は「予定を入れないこと」が最良なのでしょう。