他人の目を意識する日常

街へ出て一人で食事をすることは、ほぼありません。

喫茶やラーメン屋、ファストフード店には、一人で入れません。

怖いから

あ、牛丼屋には辛うじて入れます。

 

どうしても、店員や他の客にジロジロ見られている気がします。

しかも、「あいつあんなもの食ってる」みたいに嘲笑されている気もする。

でも、他の人と一緒のときは、何とも思いません。

ファストフードも、ドライブスルーなら何の問題もない。

 

では、なぜ牛丼屋には普通に入れるのか?

これが自分にも分からない。不思議。

 

あと、本屋でも、

自分が手に取る本が他人にばれるという状況が恐ろしいので

(別に、いかがわしい本を手にしているというわけではありません。

「へえ、こいつこんな本見てるんだ、馬鹿じゃねえの?」

みたいに思われているような気がするので)、

そういう状況にならないように気をつけています。

 

こう文章にすると、大変生きづらそうな毎日に思われそうですが、

私にとっては、至って普通の日々です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書き間違いとみなせるかどうかの境界線

ある空き店舗のシャッターに貼られた紙に大きく書いてあった文字。

」。

「それは『』だろ!」と、心の中で突っ込む私。

さすがに、紙に書かれた連絡先に電話したりはしませんが。

 

そんなことより不思議なのは、

「『貨』を見てすぐに『貸』の書き間違いだと思ったこと」です。

似てるといえば似てるので、ある意味当然かもしれませんが、

じゃあ、「賃」と書いてあったらどうか。

あるいは、「資」ならどうだろうか。

もし「貝」と書いてあったなら、何だと思うでしょうか。

よもや「貸」の書き間違いだとは思わないでしょう。

 

ということは、「貸」の書き間違いとみなせるかどうかの

境界線というものがあるんじゃないか?

それによって、私は無意識のうちに、

「これは『貸』のつもり」とか「意味が分からない」とか

判断しているのではないでしょうか。

 

一方、貼り紙に「売」と書いてあれば、

「これは売り店舗だ」と思うのであって、

決して「『貸』を書き間違った」とは思わないし、

「意味が分からない」とも思わないのですから、

「貸」と「売」の間にもどこかに境目があるのでしょう。

 

「それがどうしたのだ」と言われれば、返す言葉もないです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タイムマシンの関与が疑われる案件

私はSF小説を全く読まないので、そっち方面の知識には疎いのですが、

SFの王道はタイムマシンのような気がします。

ところで、

タイムマシンというものは、理屈の上で可能なものなのでしょうか。

これについても、私は全く確かな知識を持ち合わせていませんが。

もしタイムマシンが理屈の上で実現可能なものならば、

未来の誰かがきっと実現させるのでしょう。

 

もしタイムマシンが実現したら、誰かが過去の世界に行って、

何かしらやらかしてくるのではないか。

人間である以上、そういう衝動は抑えられないのではないか。

 

現実の社会で、全く訳の分からない事件が起こったりします。

犯人が分からないとか、被害者がどこに行ったか分からないとか。

ひょっとしてこれらは、

タイムマシンでやってきた不心得者の仕業ではないか。

ふと、そんなことを考えます。

それならば、我々に事件の全容が分かるはずがない。

 

同じように、

歴史上の人物で生没年不詳の人については、

タイムマシンが一枚噛んでいるのではないでしょうか。

そういうことなら、

突然現れたり、忽然と姿を消したりしても不思議ではない。

 

そういう人の正しい生没年は、たとえば

「1900~1945、2500~2510」

みたいなことになる。

後世の人が見れば辻褄が合っているのです。

我々には得体が知れなくても。

 

 

「降水確率0%」の予報

朝の天気予報を見て、洗濯物をどこに干すかを考えます。

ベランダか、室内か。

そのとき、降水確率が20%以下なら、迷わずベランダへ。

40%以上だと、途端に不安になって室内干し。

30%のときは、運を天に任せてベランダへ。

まあ、10%でも20%でも、降るときは降るので、

いつでも運を天に任せた状態であることに変わりはありません。

 

ところで、天気予報ではときどき「降水確率0%」のときがあって、

それを見ると反射的に「雨なんか降るはずがない」と思ってしまうのですが、

実はそうとも限らない?

よく聞いてみると、「1ミリ以上の降水確率」と言っている。

ということは、

1ミリより少ない降水については0%ではない

のではないでしょうか。

四捨五入を考えても、0.5ミリ未満の雨ならば、

仮に降ったとしても予報は外れていないことになるんじゃないだろうか。

 

にわか雨だと、0.5ミリ未満の雨はざらにありそう。

道路全体が湿るくらいの雨が降れば、

ベランダの洗濯物はたいがい残念なことになっています。

そんなときは、

濡れた洗濯物を取り入れながら、小声でぶつぶつ言うしかないのでした。

 

テセウスの軽自動車

テセウスの船」というパラドックスがあるそうです。

ウィキペディアによると、

ある物体のすべての構成要素(部品)が置き換えられたとき、

基本的に同じである(同一性=アイデンティティと言えるのか

という問題である、とのこと。

 

いくつかのパーツでできている物について、各パーツを順次交換していき、

結果的にもともとあったパーツがすべてなくなった(=すべて新しいパーツに替わった)としても、

その物は依然として「元の物と同じである」と言って良いのか?

ということだと思います。

 

この話を知って、ふと思い出したのが、

私が初めて買った車(軽自動車)のことでした。

 

その車に乗っているとき、何回か物損事故がありました。

別の車に追突して、フロントグリル、ボンネット、フロントガラスを交換。

トラックに当て逃げされて、右のドアや右前部分を交換。

駐車場内での接触で、左のドアを交換。

 

そのとき、「この車は、買ったときに比べると、かなり別物になってしまったな」

と思っていた私。

それはつまり、テセウスの船」の途中段階だったのだと気がついた。

 

結局、その車は、「テセウスの船」(=すべての部品交換)には至らず、

新車を購入したときに下取りに出しました。

後日、街中でその車を偶然目撃し(ナンバーが同じだったので分かった)、

「持ち主さえも変わったけど、あの車はまだ頑張ってるんだなあ」と思いましたが、

その時、車のアイデンティティは更に崩壊していたのかもしれません。

 

なお、同じウィキペディアによると、

「自動車の場合、日本では車台番号の打刻されたフレーム

法的にはアイデンティティを規定する」とのことです。

じゃあ、あの軽自動車のアイデンティティは崩壊していなかったんですね。

良かった、良かった。

映画も好きになれない私

きのう「ドラマが好きになれない」と書きましたが、

実は、映画も好きになれません。

映画館に行ったのは、もう何年前のことでしょう。

 

ドラマが好きになれない理由をきのう書きましたが、

当然のことながら、これらは映画についても当てはまります。

そのうえ、映画には好きになれない理由があと二つ。

 

1 上映時間が長い。

  1時間のドラマでも長いと思う自分には、映画の時間は長すぎる。

2 映画館で見るときの圧迫感がすごい。

  あの大音響と大画面は、私には苦痛です。

 

それで、映画館にも行かず、DVDも借りないのです。

何を隠そう私は、「寅さん」も、「ジブリ」のアニメも、「スターウォーズ」も、

全く見たことがありません。

今の日本に、私のような人がほかにいるのか、非常に疑わしいところです。

 

日本の俳優・女優の顔と名前が一致しないのは当たり前のこととして、

外国の俳優・女優は名前さえろくに知らない

ぜひとも、私には映画の話題を振らないようにしていただきたいと思います。

 

 

 

ドラマが好きになれない私

ドラマを好きになれません。

これまでの人生で、何回かはドラマを見たことがありますが、

第1話から最終話まで全部見たというドラマは一つもありません

NHKの朝の連ドラも、フジの「月9」も見ません(「月9」は1回も見たことがない)。

 

なぜ私はドラマを好きじゃないのか(興味が持てないのか)。

思いつく理由が三つほど。

 

1 見るのがしんどい。

  特に、連続物は欠かさず見なければならず、それを考えただけでしんどい。

  見ること自体がしんどいので、録画もしないし、DVDを借りることもない。

 

2 「所詮作り物だ」と思ってしまう。

  だから、「なんて都合よく事が起こるんだろう」とか思って、しらけてしまう。

 

3 そのくせ、見てしまうとドキドキしたり感極まったりする。

  下手すりゃ涙を流してしまう

 

以上のような理由で、ドラマを好きになれない(避けている)のです。

その結果、周りがドラマの話をしているときには、その中に入れない。

俳優さんや女優さんも、顔と名前が一致しません。

 

「最近のドラマはつまらなくなった」とネットなどに書かれていますが、

以前のドラマを知らない私には、それすら分からないのです。